支援団体の初面接で感じた事その2
「ご主人も奥さんも働かれてますが、どちらが家庭の中で子育の中心になるおつもりですか?」
職員さんの言葉に唾をのみこみました。
僕達夫婦は共働きです。恐らく僕達のような晩婚カップルはお互い仕事をしてという人ばかりでしょう。
結婚適齢期に仕事を集中してしまい、仕事のキャリアは十分積んできたのに、家庭のキャリアは全く積めなかった。お互いいい年同士の結婚はそういう方も多いでしょう。
僕の奥さんは例にもれずそんな人で、結婚適齢期を逃してまで仕事に集中したお陰で立派なキャリアで充実した仕事をしてます。
でも僕は違いました。
僕は若い時から起業してでっかい人生送ってやろうと思ってました。
若い時に大手の企業に潜り込む事が出来たまでは良かったのですが、三十手前になり一念発起して起業。
あえなく失敗。
計画を立て直して再挑戦。
やっぱり失敗。
気をとり直して再々挑戦。
瞬殺。
この間に交通事故で1年入院ってオプションも入ったりするんですが。
とにかくまあ胸をはれない人生送ってきました。
因みにこんな失敗続きの人生だったのも今から振り返ると分かる気がします。
僕はでっかい人生送ってやろうなんてかっこいい事言ってましたが、イメージするでっかい人生は
メルセデスを乗り回し、両脇をけしからん装いの異性に囲まれ、バスローブにドンペリの入ったグラスを回す僕
ザ・昭和、ザ・浜省な成功イメージしか持ち合わせてませんでした。
僕の本棚も専門書よりも自己啓発の本が多く、よく落ち込んだ友達がふらっと立ち寄って元気になって帰って行きました。
まあこんな感じで僕は、何者かになろうとして何にもなれなかった。
誰かのせいや時代のせいでもなく、全て僕自身のいたらなさでそうなりました。
才能のない僕自身が戦いに負け続けて、その結果、起業家でもなくとっかえひっかえできる派遣社員のポジションにしか収まれなかった。
運よく今の奥さんと出会えたけど、
不妊治療何度も何度も
何度も何度もトライししたけど
僕はお父さんにもなれなかった。
やっぱり僕は何者にもなれなかった。
最後の不妊治療の結果が駄目だった時、呆然としてる僕に奥さんは言いました。
「専業主婦じゃないと養子縁組できないみたいなの」
僕がやる。
僕が専業主夫をやって子供を育てる。
即断でした。
もうこれ以上何者にもなれないまま人生を終えたくない。
「お父さんが家事を主にやるんですか?」
支援団体の面接官さんの目が丸くなりました。
面接始まった時から相手にペースにぎられてたので何とか巻き返してやりました。
派遣で勤めていた会社を辞めて家庭に収まるというのが、僕達が用意した養子縁組を前進させる最後のキラーフレーズでした。
不妊治療の事をしつこく聞かれ、割とフラフラでしたが、最終ラウンド起死回生の一発がヒットした手ごたえがありました。
でもどんどん面接官さんの顔は曇って行きます。
「こちらで今迄紹介した養子縁組は大抵がお母さんが子育ての中心です。本当にお父さんがお母さんの代わり出来ますか?」
はぁ?でした。
ジェンダーフリーとか声高に叫ばれてるこの令和の世の中でなに昭和的な価値観ぬかしとるねん。これからの世の中は、男だからこう、女だからこうという凝り固まった価値観は無くしていかないといけないんやないんすかね?ジェンダーフリー的にリベラルに苦言言わせて貰うと。
「確かにそうです。でも男と女があるように、子供はお母さん的なものを求めるんです」
「それは何ですか?」
「ごめんなさい。支援してる私達でも上手くいえません。お母さん的なものをお父さんのあなたが一生懸命考えて子供に与えてくれますか?」
面接官さんが謎かけとと供に差し出した依頼に、頭がこんがりながも首を縦に振りました。
「ありがとうございます。私達の経験でもお父さんが子育ての中心というケースは珍しいですが良い方向に向かうようフォロー出来ればと思います。それではお二人に養子縁組の資格が取って無事縁組が成立するように一緒に頑張りましょう」
面接官さんはニコッと微笑んでくれました。
最終ラウンドのゴングが鳴った後、お互いの戦いをたたえあうボクサーの気持ちがほんのちょっぴり分かる気がしました。